加奈子は机に向かっていた。
畳敷きの部屋に、引き出しのついたシングルベッド、小学校時代から使っている勉強机。そろそろクーラーが恋しくなる季節なのにエアコンもない。そんな空間、そこが彼女の生活の場で仕事場なのだ。四.五畳しかなくとも家具がなければそれなりに広く見える、という理由でこのようにしてある。捨てられないものは引越しのときに実家にそのまま置いてきた。友達からもらったプレゼント、CDやプレーヤー、時期はずれの服、テレビ、洋服ダンス、ぬいぐるみ、等々。実家といっても自転車なら二十分ほどの距離なので、必要な時にはすぐに取りに行くことができるという理由からでもある。
引越しをしたのには必然的な理由があった。加奈子は今年で二十四才になるのだが、二十一才の弟と十八才の妹がいる。どうやらその環境で仕事をするのには家の壁が薄すぎたのだ。仕事をしているから静かにしてくれと彼らに言えばそのための努力もしてくれるのだがやはりうるさいのだ。
加奈子は二年前にミステリー作家としてデビューした。彼女の書き進め方というのは、まず机に向かいワープロを入力待ちの状態にする、次に『神の声』を待つ、という二段階である。『神の声』というのは(加奈子がそう呼んでいるだけのことなのだが)次の作品の書き出しや書きづまった時などに思いがけないひらめきが浮かぶことだ。いいアイディアが浮かぶと『神の声が聞こえた』と表現するのである。しかし実際は自分で考えているだけのことなので、ある程度は神経を集中して考えていなければならない。特の加奈子の場合、静かならば静かなほど集中できて頭が働くタイプだった。受験勉強が一番はかどったのも図書館のトイレだったというほどである。彼女はそんな理由で一人暮らしを始めた。
そしていまその『神の声』を待っている真最中なのだった。机に向かって座り、宙を眺めている。はたから見たらぼーっとしているようにしか見えないのかもしれない。美人ではないが、目、鼻、口、のバランスがいいといった顔立ちもこのときばかりはどうにも間が抜けて見えるのだった。
新作の書き下ろし用の原稿を書こうと神の声を待って大分時間が経っていた。ジョッキサイズのカップを口に運んだが空になっていた。加奈子はカップを手に立ち上がり、今日の仕事を始めてから二十数杯目のコーヒーを作るために台所へ向かう。やはりといった感の何もない台所。冷蔵庫すらない。唯一の台所用品のやかんをガスコンロの上に乗せて火にかけた。水が沸騰するまでの間、彼女はずっとガスコンロの前に立って動かずにいる。カップを片手にもち、視線の焦点は合わずに、火の前に立っているのだ。デビュー前に一度実家でこの行動をやっていた時に母親に見られて、自殺でもするんじゃないかと思ったと言われたこともあった。
インスタントコーヒーの粉末を瓶から直接カップに放り込み、やかんの湯をカップの九分目まで注ぐ。彼女は作ったばかりの飲み物をすすりながら椅子へと戻った。ただ神の声を待つ時間がまた始まった。
加奈子はカップを口に運んだ。空だった。だるくなってきていた。コーヒーの飲み過ぎのせいか胃の中も変な感じのようだった。
ワープロ、コーヒーカップのほかのに机の上にもう一つだけ置いてあるものに目を向けた。携帯電話だ。この部屋で時刻を知ることができるものはこれだけだ。充電器に刺さった電話機の表示は四時二十二分。明け方が近い。机に向かってから六時間以上が経っていた。しかしワープロには一文字も表示されていない。彼女は深呼吸とも思えるほどの大げさなため息をついた。
「疲れも出るはずだよね」
加奈子は時刻表示に向かって言葉を発した。だれもいないのだからしようもないことなのだが、彼女がこの部屋で話しかける相手は決まって机の上の三点のどれかだった。
今度はワープロに向かって話しかけた。
「何にも仕事がないんじゃあなたがかわいそうだから、釈然としてないところだけちょっとだけ相手してあげる」
加奈子はワープロのキーボードを叩き始めた。みるみるうちに画面が文字で埋められていく。
『その部屋で照明といえるものはサイドテーブルの上にあるスタンドライトだけだった。上と下にしか光が出ない作りになっている。発しているのは柔らかな中間照明にしかならないので部屋中が薄暗い。キャンドルを一つ灯したほうが何十倍も明るいに違いなかった。
壁に掛かった鏡にスタンドが映っているが、鏡の向こうの光で部屋が明るくなる訳もない。
時折部屋を灯すもう一つの光源があった。スクリーンセイバーだ。しかしこの明かりは、パソコンがそこにあり、何かしらの台の上に乗っているということが分かる程度にしか照らしていない。カーテンは閉じられ、それを通しては一切の光は入ってきていない。薄暗いというよりも、スタンドの描く光以外は暗闇といえるかもしれなかった。ぼやけた光が天井に円を、サイドテーブルと床にそれぞれ半円に近いスポットライトを描き出していた。
床の上に映えるスポットライトの中に息づくものが一つあった。
男が仰向けに横たわっている。
スタンドの光が男の足先から首の少し上、あごと口の辺りまでを照らし出していた。男はスカイブルーのスウェットパンツにTシャツという格好をしている。しかしそのTシャツは奇妙な光沢を放っていた。赤、いや黒に近い色の液体が、どうやらシャツの下からにじみでてきているようだった。黒い液体はTシャツ染めるだけでは飽き足らず、床の上をもじわじわと染めつつある。男の胸がわずかに上下するのがポンプであるかのようにその液体は領土をひろげていく。
突然その胸の動きが止まった。次の瞬間男の口からしぶきがあがった。黒い液体が口からも放出し、あごも首も同じ色に染まった。そしてまたわずかに胸が動き始めた。床の上の液体は、その間じゅうもまるで意思を持ったゲル状の不定形生命体のようにひろがり続けていた。
男のかたわらに光るものを持つ女が立っていた。女の右手には果物ナイフが握られている。夜の街を彩るかのような赤い唇が満足げに笑んでいた。』
「ちがうっ」
加奈子はそう叫ぶとワープロを打っていた手を止めて頭をかきむしった。
「なんで周りが見えないくらいに真っ暗なのに女が立ってるって分かるわけ。しかも口紅の色まで分かるわけないじゃないっ」
加奈子はワープロに向かってどなりつけた。彼女が話しかける相手はケータイ、ワープロ、カップとあるが、八つ当たりをするのはいつもワープロに対してと決まっていた。しかしさすがに大事な商売道具なので、投げつけたりということはなかった。彼女はワープロの電源を切りもせず、開いていたディスプレイ部を壊れない程度に乱暴に閉じて、ベッドに身を放り投げた。
「うるせぇぞ、こらぁ」
階下から怒鳴り声がした。今回のような書き下ろしの書き始めにはこんなことがよくあった。しかしその度ごとに加奈子は、口にこそ出さないものの『こっちの気も知らないで、勝手なこと言ってんじゃねーよ、ばーか。オマエがどっか引っ越せ』と思うのだった。今日も例外ではなくそう思っていた。しかし今回は疲れの方が大きかったらしい。
「もういいや、寝よ寝よ」
加奈子は着替えをする気もなくそのまま寝入ることにした。ベッドから少し身を起こして壁に付いている蛍光灯のスイッチを切った。それからまた寝転がり仰向けの大の字になった。いつもながら眠ってしまうまでに数秒とかからなかった。
しばらくすると寝息だけが聞こえるはずのその部屋で加奈子のものではない声が響いた。小さな声なのだが確実に響いた。すすり泣いているようだった。
(……どうして私には顔がないの……)
加奈子は目を覚ました。まだ窓から強い光が差し込んできている。夜がメインの活動時間となっている彼女にとっては老人並の早起きだ。寝つきが早い代わりに一度起きると二度寝ができないので、コーヒーを飲もうと思い台所へ向かった。そしてカップに九分目までいれたコーヒーを持って部屋に戻ると椅子に座った。この部屋に椅子は一つしかないため、椅子に座るということは必然的に机に向かうということになる。
昨日のことが頭に浮かんできた。六時間仕事をしているつもりが結局ほとんど何にもできなかったのだ。早く仕事にとりかからなきゃ、と思う一方で、まだこんな時間だし仕事は後でいいよな、なんていう意思の弱さも覗いたりする。そこで自分の中で葛藤があることに苛立ちを覚えたりもする。そんなことを考えてるうちに既に一杯目のコーヒーはなくなってしまっていた。携帯電話の表示は十五時四十二分。彼女が仕事をする気分になるにはまだ早すぎた。深呼吸とも思えるほどのため息をつく。
「そうだ輝君に会って気分転換しよう」
もともと輝は加奈子が短期の連載をしていたときに担当者だったのだが、今では恋人に近い関係になってきていた。仕事とは関係なくちょくちょくと会うようになって、なんとなく、いつからか、といった感じで仲が深まっていったのだった。恋人なのかと聞かれるとどうなんだろうと考えてしまうが、一番大事な人は、と聞かれると真っ先に名前があがる、そんな関係だ。デートをする以外にも、他の出版社での仕事のときには原稿を前もって見てもらったりするのだった。彼は物書きという人種をたくさん見てきていたし、もちろん加奈子がどんな風に原稿書き進めるかを理解していたので、邪魔をしてはいけないからと連絡はしてこなかった。書き上がったところで彼女の方から電話するのが常だった。
加奈子は、たった今大きなため息をついたときと同一人物とは思えないような表情になって携帯電話をひったくった。一件しか登録されていないメモリーから短縮発信する。
コール二回。
「はい」
聞き慣れた声がした。
「加奈子です」
「……えっ、もう原稿あがったの? 今回はまたずいぶんと早いんじゃない。あれ、いつから取りかかったんだっけ?」
「あがるわけないでしょ。きのう始めたばっかりなんだから」
「そうだよな。でも珍しいね。そんな時期に連絡よこすなんて」
「何かうまくノレなくて」
「神の声が聞こえないってこと?」
「そう」
「ははは、そんなこともたまにはあるって。まぁ気にしないでやって……」
「それで、気分転換に輝君とどっか行きたいなと思って電話したんだけど」
「……そうか。まぁ時間はまだたっぷりあるから大丈夫だよな。さっそくあしたにでも出かけようか。どこか行きたいところある?」
「ええぇ。さっそくであしたなのぉ。さっそくだったら今日がいいなぁ」
加奈子は甘ったるい声を出して男に媚びてる奴って殺してやりたいなどと言っているくせに、それをやってることに自分で気付いていなかった。しかも輝に対して頻繁に口にしていた。
「今日は無理なんだよ」
「どうして無理なの?」
「今名古屋にいるんだ。だから……」
「いつ帰ってくるの?」
「終電に間に合うようだったら今日帰りたいんだけど、新幹線の最終が十時十分だからちょっと難しそうなんだ」
「ふぅん。じゃあそれに乗って帰ってきて」
「……いやまだどうなるか分からないんだって言ってるん……」
「帰ってきてくれるよね」
「……」
「名古屋から新幹線使ったら二時間かかんないんだよね」
「……」
「帰ってきてくれるよね」
加奈子は繰り返した。
「……分かった。なんとか戻れるようにするよ。でもホントにどうなるか分からないから、こっちからまた電話するよ」
「……うん。分かった。待ってる」
加奈子は電話を切った。悪いことは重なるものだと思った。大したことではないのだけれど、些細なことが結構気分をブルーにしていってしまうのだ。今の彼女の場合は、仕事は進まないし、早起きして手持ち無沙汰だし、コーヒーの飲み過ぎで食欲がなく胃が変な感じだし、下の住人からは怒鳴られるし……。などと考えてるとさらに浮かんでくる。ベッドは小さいし、コンビニは遠いし、天気が良すぎて眩しいし、貯金は増えないし……。でも自分が偉いな、などと思ってもみる。仕事で会えないと言っている輝にすねないで電話の会話を終わらせるなんて、という風に。そのことを勝手に自分の悲劇にしてしまって、今度は、ああ私ってひょっとして不幸な人間じゃない?となる。
「ああ私って不幸」
ついには口に出してしまっていた。そしてその次にくるセリフは決まっていた。
「こんなときはお酒だよね」
言いながら既に立ち上がっていた。加奈子は酒を飲むのにわざわざ自分に対して理由をつけることが多い。これは一度失敗したことがあったからだった。
一年ほど前のことだったが中学時代の同窓会があった。その日はかなりいい気分になって帰ってきた。帰ってくるなりいつものようにたった一つの椅子に腰かけると、やはりいつものようにワープロに向かったのだった。そして前日に入力した辺りを読み返してみた。おっ、なかなかいいじゃない、などと自分で感心してしまい、しかも不思議なことに次の文がすらすらと浮かんでくるのだった。これはひょっとしていい方法かも、などと思いながら、その文を次々と打ち込んでいった。もともとが仕事をしているはずの時間帯だったせいもあって、その日は夜明けまでワープロに向かっていたのだった。日が沈むまで睡眠をとると、目が覚めるなり酒屋で各種アルコール飲料を購入。帰り道で、今回は百五十枚だから余裕で今日完成だとにやつきながら、既に缶ビールを飲みながら歩いていたのである。家に着き、明日原稿があがるから見に来てほしいと輝に電話で伝えるとワープロに向かった。この日も思いの外はかどった。日付が変わるところに書き上がると、チェックをしながら通し読みをし、よしオーケーと眠りについたのだった。
次の日、昼過ぎに輝が来た。加奈子は玄関から輝を招き入れるとまたふとんにもぐり込んでいた。輝はワープロの電源を入れるなり読み始めた。読み終えた彼が言った言葉は「初めから書き直したほうがいいよ」だった。結果、加奈子と輝はけんかする羽目になった。加奈子は自分ではなかなかの出来だと思っていたので、初めから新しく書き直す気など毛頭なかった。何がいけないんだ、と自分でもう一度読んでみると、……ひどかった。おもしろいおもしろくないの以前の問題だった。らくがきだ。さらには読み進めるのが苦痛になって、途中で読むのをやめてしまったのだった。この件は輝に電話で謝り原稿は初めから書き直すことで解決した。それ以来酒で酔っているときのアイデアは『悪魔の声』と命名し、ワープロに向かいながら、飲んだら打つな、打つなら飲むなと決心したのだった。
そんな加奈子が大きなビニール袋いっぱいに買い物をして戻ってきた。畳の上にあぐらをかき中身を取り出す。ビール五百缶二本、チューハイ三百五十缶二本、発砲酒五百缶二本、出来合いカクテル瓶各種計五本。もっと飲みたいのになくなってしまうと嫌な気分になるから、といつも多めに買ってくるのだった。冷蔵庫もないし、とその日のうちに全部飲み干してしまうのもいつものことだった。悪い癖だな、と思いながらも繰り返してしまうのも、これもまたいつものことなのだった。
「まずはビールでしょ」
加奈子は畳のあぐらをかいたまま、中身の詰まった瓶や缶を肴にして飲み始めた。
どれくらい経っただろうか。窓から差し込む光は太陽のものから街灯へと変化していた。空になった缶や瓶を入れていったビニール袋も膨らんでいた。中身の詰まったものは瓶二つだけになっていた。
加奈子はあぐらをかいたまま、上体がふらつくようになっていた。バランスの悪いテーブルの上に乗っているおきあがりこぼしのようでもある。彼女は飲みかけのカクテルの瓶を持ったままベッド脇の電源を入れた。部屋の中が明るくなる。その後またさっき座っていたときと同じ位置に戻り、再びあぐらをかいて座った。そして手に持っていた瓶を口に持っていき中身を口の中に注ぎ込んだ。そのとき、彼女があごを突き上げた格好で、ちょうど瓶の中身もなくなったときに女の声が響いた。それは加奈子が発したものではなく、ましてや外から入ってきたものでもなかった。部屋自体が発しているようでもあり、しかし加奈子の頭の中にだけ響いているようでもある。すすり泣いてるようだった。
(……どうして私には顔がないの……)
加奈子の動きが止まった。カクテルを瓶からラッパ飲みしている格好のままである。
(……どうして私には顔がないの……)
再び響いた。
加奈子はゆっくりと瓶を持った手を下げていった。そしてこう思った。「ほんものの神の声だ」と。持っていた瓶を投げ出すなりワープロに向かった。昨夜打ち込んだ最後の部分を表示して次を打ち込む準備をした。そしてじっと考え込んでいた。顔がない、顔がない、顔がない、顔が……。
(……)
その間、声もなくすすり泣きが響いていた。
ない、顔がない、顔がない、顔がない……。
(………)
「そうか、こういうことだ、きっと」
加奈子は昨日のうちに気付いていたはずの矛盾点のことも忘れていた。指が動き始める。
『女は笑みを浮かべていた口元を少し引き締めた。と次の刹那、男の首にめがけて果物ナイフを降り下ろした。刃の部分は完全に首に埋まった。黒い液体の出口がまた一つ増えた。女は刃が少し見えるようになるまでナイフを少し引き戻した。首から出てきたその刃は鋭い金属の光沢を既に放ってはいなかった。次に女は刃の先端辺りが中心になるようにしてナイフで弧を描いていった。ゆっくりと、確実に。女の手が進むごとに男の首の切り口は大きくなっていく。そこから音がたたないのが不思議なくらいに黒いものは噴き出してきていた。』
(……)
すすり泣きはまだ続いていた。
『女は作業を繰り返した。刺しては切り裂き、刺しては切り裂いた。ついには 頚椎をも分断した。男の首は左側へかしげたようになって、頭部と胴が分断された。辛うじて皮一枚でつながってはいた。女はそれが芸術であるかのように完全には分断しなかった。黒い液体はその新たな出口から喜んで流れ出していた。女はまた赤い唇で満足げに笑んだ。』
(………)
すすり泣きはまだ続いていた。
加奈子はすすり泣いている声に気付いた。打ち込むことに集中しすぎていたにかもしれなかった。そしてまた考えた。すすり泣き、すすり泣き、すすり泣き……。
「そうか、分かった」
指が踊り始めた。
『そのとき男の口から声が上がった。胴と頭が離れてしまって声など出るはずのないその口からだ。
「……あい…し…て……る……」
その声は震えていた。すすり泣いているようだった。女はその声を背に歩き出していた。右手に一体化してしまっているかのようなナイフを持ったまま。
ぼやけた光の中に男だけが残された。
黒い液体はまだ流れ出ていた。』
「こんなとこかな」
加奈子は指を止めた。そして畳の上へ戻り、次の瓶を手にふたを開けた。
「さあ次はどうなるのかな」
加奈子は一口カクテルを飲み、次の声を待った。
(………)
すすり泣きは続いていた。
(………)
その時声にならない声が、しかしすすり泣きとは明らかに別人の声が響いてきた。男が喘いでいるようだった。
(……く…………び……)
(……どうして顔がないの……)
(……い……た…い……)
(………)
「もうそれは打ったのっ。その次が知りたいの」
(……く………び……)
(……どうして顔がないの……)
「ああ、もう、違うんだってば。次に進みたいのよ」
加奈子は瓶を畳の上に置き、ベッドの上に身を投げた。
(……い……た…い……)
(………)
「うるさいっ。もうやめてっ」
(……なん……で……)
(……どうして………)
(……うっ……)
(……私の顔……)
(……ごっ……げほっ……)
(……どうして……)
加奈子はいつのまにか眠ってしまっていた。しかし二つの声はまだ続いていた。
(……どうして……私の顔……)
(……うっ、だれか……)
(……ひどい……ひどすぎる……)
(か、かみ……)
電話が鳴った。二つの声とは全く質の違う音だった。この世の中のたった一つの音であるかのようにけたたましく鳴っている。
加奈子は眠っていた。仰向けになって、ただ胸だけをわずかに上下させて。
電話の音が止まった。
二つの声だけがまだ響いてた。